ビジネスノウハウ

ガリレオ・ガリレイの「稼ぎ」方

それでも地球は回っている
天文学にあまり関心がない人でも、聞いたことがある言葉ではないでしょうか?

この言葉で有名なガリレオ・ガリレイ(1564年~1642年)は、イタリアの天文学者・物理学者で「天文学の父」と呼ばれています。

ガリレオが生まれた15世紀は「宇宙の中心は地球で、地球の周りを太陽や月や星が回っている」という「天動説」が信じられていました。

ところがガリレオは、星の観測から天動説は間違いで、地球が太陽の周りを回っている「地動説」を唱えたのです。

しかし、地動説は当時の人たちには受け入れられず、聖書の教えに背くとしてガリレオは宗教裁判にかけられてしまいます。

そして、その時につぶやいたと言われているのが「それでも地球は回っている」でした。

このように、自分の信念を信じて研究熱心な学者というイメージのガリレオですが、実は意外な一面もあったようです。

なんと副業でお金を稼いでいたというのです。

そこで今回の記事では、ガリレオの生涯から意外な一面についてまでをわかりやすく解説します。最後までご覧になって頂ければガリレオの思想から、どうやって副業を成功させたのかまでを理解することができます。

このチャンネルではこういった情報を配信しております。少しでも必要な情報だと感じたら、どこのチャンネルかわからなくなる前にぜひチャンネル登録をよろしくお願いいたします。それでは早速やっていきましょう。

動画でもわかりやすく解説!

Contents

ガリレオの就職活動

まず、ガリレオの生い立ちから見ていきましょう。

ガリレオは北イタリア、トスカーナ領の都市ピサで生まれ、両親のほかに弟が4人、妹が2人という、9人の大家族で育ちます。

ガリレオの父親は音楽教師でしたが、音楽の仕事だけで生活をしていくことができず、妻の実家の生地屋を手伝って生活費を稼いでいました。

成長したガリレオは17歳の時にピサ大学に入学しますが、3年半で中途退学してしまいます。

中退した理由は、大学の古臭い学問が嫌になったからだとも、経済上の理由だとも言われていますが、おそらくは両方だったようです。

大学を中退したガリレオは、家庭教師のアルバイトでなんとか生活費を稼いでいましたが、安定した大学教授の仕事を求めて就職活動を始めます。

その頃のガリレオは、いくつか優秀な論文を書いていたので教授になれる実績はあったのですが、なかなか大学には採用されません。

庶民の出であるガリレオには、有力なコネが無かったからです。

それでもガリレオはめげることなく、さまざまな知識人や教養の高い有力者に自分の論文を送り、感想を求める活動をしていました。

そして、その送り先の一人である貴族のグイドバルド・デル・モンテがガリレオの才能を認めてくれます。

このデル・モンテ家は、一族の中からカトリック教会の最高司祭である教皇や、教皇に次ぐ位の枢機卿を出し続けている名門貴族です。

ガリレオがグイドバルドと知り合った頃にも、グイドバルドの弟が枢機卿に選ばれています。

ガリレオはこのチャンスを逃すまいと、以前不採用になったピサ大学の教授職に枢機卿の推薦をもって再度応募し、合格を勝ち取りました。

こうして25歳の時にガリレオは、ピサ大学の数学の教授になります。

しかし、念願がかなってピサ大学の教授になり、研究に専念できると期待していたガリレオですが、思い通りにはいきませんでした。

教授といっても契約で決められた任期があり、現代の専任講師のような立場だったのです。

そのうえ、ピサ大学では「理由は何であれ休講すると給料の一部を返さなくてはならない」という決まりがあったため、契約通りの給料をもらったことは一度もなかったそうです。

こういったことが不満だったガリレオは、教授に定められた服装のルールを守らないなど素行が悪く、大学側にも悪い印象を持たれてしまい、契約の更新はされませんでした。

ピサ大学との契約が終了したガリレオは、次にヴェネツィア共和国にあるパドヴァ大学で数学の教授になります。

この就職も、デル・モンテ兄弟のコネのおかげでした。

パドヴァ大学で教授をしていた頃は、ガリレオが最も熱心に研究に取り組んだ時期でした。

そしてパドヴァ大学時代の研究が、後に発表される「落体の法則」や「地動説」に繋がっていくのです。

副業を始める理由 

やっと好きな研究に専念できるようになったガリレオでしたが、また新たな問題が起こります。

ガリレオの父親が亡くなったことで、母親と弟4人、妹2人をガリレオが養っていかなければならなくなったのです。

さらに、その頃のガリレオには内縁の妻との間に2人の子どもが誕生していたので、二つの家庭の生活費がガリレオの肩にのしかかってきます。

ガリレオのパドヴァ大学での給料は、ピサ大学時代の約3倍になっていましたが、それでも着任して間もない事から同僚の教授の10分の1以下という少ない給料でした。

これでは二つの家庭の生活費は足りないし、給料はなかなか上がらない、そこでガリレオが考えたのは、別の収入の道、つまり「副業」です。

ガリレオはまず庭がある大きな家を借り、シェアハウス・ビジネスを始めました。

つまり、その家の部屋をイタリア各地や外国から来た学生に貸し、賃貸収入を得ようと考えたのです。

さらに、そこで別料金をもらうことでシェアハウスの学生に勉強を教えたり、学生向けの教科書をオリジナルで作ったりと収入源を増やしていきます。

しかし、これらの収入はささやかなものだったので、まだまだお金は足りません。

さらなる副業

ガリレオはさらなる副業を始めます。

この頃ガリレオは「幾何学的・軍事的コンパス」という道具を開発していました。

この道具は、大砲を何度も試し撃ちしなくても、弾丸を目的地へ飛ばすために必要な火薬の量と飛ばす角度をすぐ決定することができるという優れモノです。

ガリレオはこの道具の販売を始めますが、販売利益が目的ではありません。

本当の目的は「優れた道具を作っているガリレオ」と自分自身の名前を売り出すことだったのです。

そして、実際にデモンストレーションをして見せるなど努力の甲斐あって、この道具はガリレオの故郷であるトスカーナ公国のトスカーナ大公の手に渡ります。

このことがきっかけとなり、ガリレオは後にトスカーナ大公となる少年時代のコジモ2世の家庭教師になりました。

コジモ2世は19歳の若さでトスカーナ大公になり、ガリレオの強力な支援者としてガリレオを守り続けます。

このようなガリレオの積極的な副業活動が、大物支援者をゲットすることに結びついたというわけです。

ガリレオの戦略 

強力な支援者を得たガリレオは、その頃話題になっていた望遠鏡の研究に取り組みます。

当時の望遠鏡は最大倍率はたったの3倍、しかも画像が歪んで見えるデキの悪いオモチャのようなモノでした。

しかしガリレオは、望遠鏡の未来に可能性を感じたことで研究を重ねていきます。やがて倍率が9倍、さらには32倍の望遠鏡を作ったのです。

そして、その自作した望遠鏡で月面の観測、木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽の黒点観測と、天文学上重大な発見を次々としていきます。

とくに木星の周りをまわる4つの衛星の発見は「地球を中心にして回っていない星がある」ということを明らかにし、この発見から「地動説」を唱えるようになるのです。

さらに、自前の工房をつくり「ガリレオ式望遠鏡」を大量製造していきます。その一方では、自分の発見をわかりやすく書いた「星界の報告」という本も出版しています。

この頃のガリレオは、大学と副業で忙しい日々に不満を感じていましたが、望遠鏡の製造・販売業者になって儲けようという気はサラサラ持っていませんでした。

ガリレオの工房で作った望遠鏡は「星界の報告」の本とセットで、トスカーナ公国を通して諸外国の重要人物や、位の高い人だけに限定して贈られました。

望遠鏡と本をセットにすることで、天文に興味のない王様や貴族たちも自分で月や星を観測すれば、それに驚き、感激し、そして本も読んでくれるだろうと考えたのですね。

つまりガリレオは、自分の技術を安売りするのではなく自分は優秀な技術者であるということをPRする作戦をとります。

この「売らない作戦」は成功し…各国の王侯貴族たちはこぞってガリレオの望遠鏡を欲しがるようになったのです。

こうしてガリレオは、人脈やガリレオに対する評判などの莫大な「無形資産」を得るようになりました。

また、ガリレオの地動説に反対する人たちも実際に望遠鏡で天体を観測することで、ガリレオの説が正しいと理解してもらいやすくなるだろうと考えていました。

まさに「論より証拠」を実践した上手なやり方で、これがガリレオの「流儀」と言えるでしょう。

素敵なプレゼント作戦

さて、ガリレオの流儀にもう一つ作戦がありました。それが素敵なプレゼント作戦です。

ガリレオの有力な支援者となり得る、トスカーナ大公メディチ家に自分が発見した木星の衛星をプレゼントします。

もちろん、星そのものをプレゼントしたのではなく、星にメディチ家にまつわる名前を付けたのです。

木星を回る4つの衛星は、メディチ家の四兄弟にたとえて「メディチの星々」と名付けました。

このことをきっかけとして、王侯貴族のあいだで「星ブーム」が起こります。

フランス王家からは「新星を発見した際に自分の名前を付けてくれれば、一生不自由のない生活を約束する」との手紙がガリレオに届いたほどでした。

こうして1609年以降、ガリレオの名はヨーロッパ中に知れ渡るようになったのです。

宗教と科学とバッシング 

世間でガリレオの評判が高まったおかげで、大学での待遇も良くなり、パドヴァ大学の契約は終身雇用になりました。

現代で言えば、派遣社員から正社員になり、安定した収入を得られるようになったということですね。

給料も上がりましたが、それでも同僚の教授より安い金額で、ガリレオは不満でした。

そこでガリレオは、パドヴァ大学を離れて故郷のトスカーナ公国へ帰ることを考えます。

ガリレオはメディチ家へ星のプレゼントしたことによって、トスカーナ大公コジモ2世のハートを掴んでいたので、故郷へ帰ってもやっていけると確信していました。

しかし、故郷へ帰ることをガリレオの友人たちから大反対されてしまいます。

友人たちは「パドヴァ大学のあるヴェネツィアはイエズス会と敵対しているので、宗教権力に対抗できる”学問の自由”がある。しかし、トスカーナに行ってしまうとイエズス会の力が強いので、学問に宗教権力が入ることで地動説は否定されてします。」とガリレオを説得します。

それでもガリレオは友人たちのアドバイスには従わず、故郷のトスカーナへ帰るのですが、こうした友人たちの心配が的中してしまいます。

故郷で待っていたのは、地動説を否定する教会権力と、反ガリレオ派の猛烈な批判でした。

さらに頼りにしていたコジモ2世は30歳で亡くなり、一気に立場が苦しくなります。

反ガリレオ派は「地動説は聖書の教えに反している」と宗教論争で、ガリレオを追い詰めていきます。

宗教と科学とでは話のベースがまったく違い、ガリレオが解明した天体の仕組みやその証拠などは、何ひとつ通用しません。

ガリレオは宗教裁判で終身刑の有罪判決を受け、長年積み上げてきた研究の大部分と地動説は間違いだったと宣言させられます。

教会の権力が圧倒的に強かったこの時代に、教会に逆らうことは命がけのことでした。

そして1642年、名誉を回復することなく77歳で生涯を閉じます。ガリレオはさぞかし無念だったことでしょう。

ガリレオの思い

しかし、ガリレオが生み出した天体ブームは既に庶民にまで広がり、高倍率の望遠鏡が安く買えるようになると、庶民も星空を見上げるようになります。

たとえ宗教裁判で地動説を否定するよう強制されてもガリレオが発見した真実、そしてガリレオの思いはしっかり伝わっていたのです。

お金が無くても、コネが無くても、副業しながら人生を切り開いていったガリレオの生き方は、多くのサラリーマンにも希望となると思いますし、働きながらYouTubeに取り組む自分の姿とも思わず重ね合わせてしまいました。

そういった副業やビジネスに興味のある方はぜひLINEのお友だちに追加してくださいね。お友だち限定の情報を配信していきます。

大人の学び直しTVには他にも世界情勢や経済の記事があるのでぜひみていってください。

また、すあし公式LINEではよりパーソナルな学びお金やスキルアップなどの情報を配信しています。

ということで、今回は以上です(^^)/

すあし公式LINEではよりパーソナルな学び
お金やスキルアップなどの情報を配信しています。
お友だちに追加して学びを深めよう!

友だち追加
〜日本大恐慌時代の一般市民投資戦略〜

コロナウイルスに
中央銀行の大金融緩和。

いま、世界は大転換期。
これから日本はどうなるのか?

知識があれば
対策をすることができる。

逆に…

何も知らなければ奪われるまま。

知識をつけて
大切な資産を守ろう。
必要な情報を全て詰め込みました。

ぜひご覧ください。

オススメ記事

コメント