金融・経済

闇市ってなに?戦後の日本の食事情を救ったヤミ市場の真実

第二次世界大戦後の日本には「闇市」と呼ばれる非合法の市場がありました。

法律の目をかいくぐりながらの商売にも関わらず、多くの国民が集まり賑わいを見せていました。実はその闇市の跡地が、あなたが遊びに行ったりしている現在の繁華街になっていたりもします。

しかし、なぜ普通の市場ではなく「闇市」が誕生したのでしょうか?表には出せない理由とは何なのでしょうか?

そこで今回の記事では闇市についてわかりやすく解説します。

最後までご覧になって頂ければ、あなたの教養が深まること間違いありません。

動画でもわかりやすく解説!

Contents

闇市はなぜ生まれたの?

「闇市」が生まれることになった主な理由は、第二次世界大戦によってもたらされた日本の食料事情の変化です。

日本では1937~45年にかけて、中国やアメリカなどの国と戦争をしたのですが、この間に日本人の主食である「お米」が不足することになります。

戦争が始まると、まず農村の働き手である男性が戦地へ送り込まれることになり農作物の生産量が減っていきます。

次に、船や燃料が優先的に戦争で使われるようになると、お米を輸送するための船が不足していきます。当時の日本は、朝鮮や台湾から国内で消費されるお米の4分の1を輸入していたので船が不足することは実は大問題だったのです。

どんな問題が起こったの?

政府はこうした問題に応急処置を行います。それが「供出制度」です。

供出制度とは、農家が収穫したお米などを政府が決めた価格で強制的に買い上げる制度のことです。

戦争が長期化すると政府は、今度は企業に対して動き出します。

米に関わる企業の生産活動や、値段を自由に決めて商売することを禁止しました。

さらに、国民に対しても制限をかけます。

米を中心とした消費活動に制限をつけはじめたのです。「配給切符」というチケットもしくは「通帳」を持っていないと物を買えないというルールとなりました。

「通帳」と聞くと、銀行や郵便局の預金通帳を思い浮かべる人が多いでしょう。

当時、米を買う際に必要だった通帳は「米穀通帳」と呼ばれるもので、1世帯に1通くばられていました。ここに1日当たりの米の配給量が書いてあり、それを配給所へ持って行くと、通帳に印鑑を押してもらうのと引き換えにお米を手に入れることができたのです。

配給量は年齢や職業によって違います。1~5歳が120グラム、6~10歳までは200グラム、11~60歳までは330グラム、61歳以上は300グラムに定められていました。重労働とみなされる農夫や漁夫、大工などの仕事をしている人には配給量がやや増やされました。

それでも、この配給量は当時の1人当たりの米消費量の75%くらいの量でした。

そこから、さらに戦争が激化してくると米だけでなく味噌、醤油、砂糖、塩、卵、魚、小麦粉、食用油、紙、酒、衣料品など…さまざまな生活必需品が配給制となります。

たとえば衣料品の場合、運動服、スカート、下着など種類ごとに細かく点数化されていて、各個人に配布される点数の範囲内でしか買うことができません。

1人1年につき、都市部では100点、郡部では80点などと与えられ、ワイシャツは12点、タオルは3点といった具合です。

しかし、配給制度は戦争が長引くにしたがって徐々にうまくいかなくなります。

配給の米が白米から玄米へ変わったり、あるいは配給そのものが遅れたり滞ったりすることが頻繁に起こるようになってきました。

そこで、充分な量の物資が手に入らなくなった人々は、農家に直接買いに行ったり、非合法のルートで軍からの流用品などを購入するようになります。

裏のルートで購入するお米は配給米の何倍の価格もしましたが、それなしでは暮らすことができない程に困っていたのです。

1945年8月に戦争が終わると、戦地から日本本土に帰国した人たちによって、都市部の人口は急激に増加します。

当然、食糧や物資の需要も増えていくわけですが、いくつかの問題によって供給が追いつかなくなります。

主な理由は、戦争中に日本の多くの都市が爆撃されたことで、道路や鉄道などが壊されてしまったことです。農村部から都市部へ食料を運ぶのが難しくなっていたのでした。

また、敗戦によって今まで頼りにしていた台湾や韓国からの輸入が途絶えてしまったことも大きな原因のひとつです。

今まで自国の植民地だった場所を失ったわけですから、日本人は国土に戻る一方で、食料を豊富に調達することが不可能になったのです。

このように、需要が増加したのに対して、供給が減少したことで、食糧難は戦時中よりもさらに深刻化していきます。

当時、東京の上野駅付近で飢え死にする人は1日平均2人以上、大阪でも同じくらいの人が栄養失調によって亡くなったと伝えられています。

これらの食料不足をしのぐために麦・じゃがいもなどを米の代わりとして海外から輸入するようになり、アメリカの食糧支援団体から食料を提供してもらったりもしました。ただ、当時世界中で食糧が不足していたこともあり、それでも全然足りませんでした。

また、配給自体も遅れたり届かなかったりということも多いため、どうにかして飢えをしのぐためには非合法な方法でも、とにかく食料品や生活必需品を手に入れるしかありませんでした。

そういった状況の中で、戦時中に避難先として使われた場所や、空襲による焼跡などの空地を使って、非合法で食料品や生活必需品をやりとりする場所ができはじめました。それが「闇市」なのです。

どこで何が売られていた?

 新宿駅東口にひらかれたのが闇市の第1号といわれています。

その後は日本各地の都市部に続々と闇市が出現します。

この闇市にお店を出す時には的屋と呼ばれる露天商たちが、ござなどでお互いの境界を区切りました。この的屋が、闇市全体も取り仕切っていて、新しくお店を出すときには彼等に場所代を支払う必要があったと言われています。

やがては移動式の「屋台」や、焼け残った廃材などを使って建てられた「バラック」と呼ばれるお店なども出てきました。名古屋駅の近くでは600軒あまりのバラックが建ち、一日30万人ものお客さんが来ていたと言われています。

このように非合法ながらも独自のルールがある中で、占領軍から流れた外国製品や食べ物などが店先に並べられ、現金さえあれば必要な品物を手に入れることができたのです。

闇市で売られていたものは? 

では、闇市ではどのようなものが売られていたのでしょうか?

最初はざるに野菜を載せたり、石油缶に魚を入れて売ったりしていましたが、しばらくするとお店のような形態になり、うどんやおでんなどの料理も並ぶようになります。

また、日本軍や連合軍から流れてきた日用品や嗜好品なども並ぶようになり、それらも飛ぶように売れたそうです。やがては生活に必要なもののすべてが売買できるようになったとも言われています。

ただ、中には今では考えられないモノも売られていました。

代表的なものとして「残飯シチュー」という料理があります。

残飯シチューとは、その名前の通りご飯の残りかすをそのまま煮込んでシチューのようにした料理です。

豚肉やコンビーフなどの肉類、野菜の残りカス、缶詰めのトウモロコシ、スパゲッティの欠片などをドロドロになるまで煮込んで作られました。

当時、日本の占領軍が食べ残した残飯は、裏のルートで闇市に運ばれると「残飯シチュー」にされ、多く人たちのお腹を満たすものになりました。

しかし、中にはチューイングガムのゴミ、セロハンテープ、たばこの空き箱など食べ物以外も混ざっていたりして衛生面は最悪なものだったと言われています。

ただ、当時の人たちは衛生面なんて言ってられないほど困窮していて、こうした食べ物でなんとか栄養を取ろうとしたのです。

また「闇市」では違法で作られたお酒が盛んに売られていたという記録も残っています。

戦後、お酒の生産量が激減し、価格が高騰すると多くの人たちは通常よりもはるかに安い「密造酒」を求めるようになりました。

素人があり合わせの道具を使い、サツマイモや麦を発酵させて作った酒は「カストリ酒」と呼ばれ、多くの庶民から愛されました。しかし、これも「残飯シチュー」同様で衛生面で難のあるものが店頭に並ぶようになります。

そもそも素人が作ったお酒なので安心して飲める保証はありません。

例えば、アルコール度数が表記されていなかったり、原材料が分からないなど、どのように作られたのか全くわからないものが多数出回っていました。

その中でも「バクダン」と呼ばれる工業用アルコールを水で薄めただけのお酒は強烈でした。健康に深刻な悪影響を及ぼす危険な物として飲んだ者は失明したり、最悪命を落としてしまう、まさにバクダンのように危険ととなり合わせの飲み物だったのです。

バクダンのようなお酒でも安く酔っぱらうことが出来るなら幸せ…そう感じられるほど追い詰められていた当時の生活が想像できます。

闇市の消滅

生活に苦しむ人々の助けにもなっていた闇市は、その一方で、素人が手作りしたお酒などの違法な商品が売られたり、暴力団が商売に関わるようになるなど負の側面も強くなってきました。

そこで政府は、悪質な闇市を閉鎖するように各都道府県に命令を出すなど、次第に取り締まりを強化するようになっていきます。

500人以上の警官を派遣して、闇物資を扱っていた1500人をいっきに連行して闇物資を押収したこともありました。

ただ、闇市が姿を消したのは押収後のわずか数時間だけで、その夜になるとまた闇市は再びにぎわいをみせていたようです。

「闇市」を求める国民と「闇市」をなんとか消滅させたい政府の狭間で、結局完全に消えてなくなるわけはなく存在し続けたのです。

終戦から数年間、配給が遅れたり、届かないということが続く中で、人々は闇市を使い続けました。政府は「米と麦はきちんと配給する」と発表するのですが、天候不順や労働力不足により、結局安定した収穫量を確保することが出来ませんでした。その後も食料供給が安定することはなく、国民の生活を維持する機能として「闇市」は残り続けたのです。

しかし、1948年になると国内の食糧生産高が回復します。

また、同じタイミングで世界の食糧生産も好転すると、食糧輸入が拡大し、食料不足が解消されはじめました。

米の配給量は増やされ、米以外の食糧統制も次第に緩められていくと、人々の生活は落ち着きを取り戻していきます。

1951年に麦の統制が撤廃されると、これによって米以外の食品は全て自由販売となり、闇物資ではなくなりました。

国内の景気の回復と食料生産の向上によって、各地の闇市は徐々に姿を消していったのです。

現在、闇市があった場所は?

現在では、闇市の多くは商店街や繁華街となっていて、かつての面影はほとんどありません。

ですが、一部地域の裏通りには闇市を思わせる一角が残っています。

例えば、大阪の鶴橋商店街、新宿ゴールデン街、上野のアメ横などが有名です。

また、闇市がそのままビルに移転しているケースもあります。

東京の新橋駅前ビルやニュー新橋ビルは闇市があった場所に作られた建物です。大阪の駅前ビルも同じようにに闇市の名残だと言われています。

このように「闇市」はもともと非合法なものでしたが、行政のもとで徐々に合法的なマーケットに変化していったから面白いですね。

ちなみに現在「横丁」と呼ばれている場所の8割は「闇市」が起源になっているとも言われていて、僕たちは知らず知らずのうちにこれらを利用していたりもします。

まとめ

今回は「闇市」について解説しました。

言葉のイメージだけだと悪い人がいけない商売をしていると思ってしまいがちですが、終戦直後の日本人にとっては、生き抜いていくために必要なものだったのです。

自分の常識では信じられないような出来事も、歴史やいろいろな視点を学ぶことで納得できるようになります。日本人には当たり前のことも、外国人には当たり前ではありませんし、若者にとっての当たり前は、お年寄りにとって当たり前ではありません。

いろいろな環境や時代背景を学ぶことで、自分の価値観が磨かれていくのです。そういったことが学びだと僕は思います。

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ということで、今回は以上です(^^)/

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