金融・経済

マンサムーサ 人類史上最高のお金持ちに迫る

日本の長者番付では柳井正氏孫正義氏がトップを争いその資産額は2兆円以上とされています。世界ではamazon創業者のジェフ・ベゾス氏1,770億ドルでトップになっています。

それ以外にも裕福な人はたくさんいますが、歴史上最もお金持ちな人物とは誰でしょうか?また、何を成し、どんな暮らしをしていたのでしょうか?

そこで今回は驚異の億万長者マンサ・ムーサについて解説します。

最後までご覧になっていただければマンサ・ムーサの伝説や、人類史上最高のお金持ちが何にお金をつかったかまでわかり、あなたの教養が深まります。

 

動画でもわかりやすく解説!

Contents

世界一のお金持ちとは?

2015年アメリカのタイム誌が、歴史上の人物をすべてひっくるめた人類の長者番付を発表しました。

現代の億万長者、ビル・ゲイツがランクインしているのは9位です。それ以上にお金を持っている人が連なっていると考えると何だかすごい世界です。

ちなみに3位は中国の王朝、北宋の第6代目皇帝である神宗で
2位はローマの英雄・カエサルです。歴史上の有名人物たちが並んでいます。

そんな長者番付の1位を飾ったのは、西アフリカのマリ帝国を支配した9代目国王マンサ・ムーサという人物です。

彼が保有していた資産は、現在の日本円にして約40兆円にものぼると言われています。

ちなみに「マンサ」というのは「王の中の王」という意味で、名前ではなく国王に対する敬称です。しかし、西アフリカの歴史は僕たちには馴染みが薄いので「マリ帝国のマンサ・ムーサ」と聞いても、いまいちピンと来ない人も多いのではないでしょうか。

そもそもマリ帝国というのは1230年代 – 1645年の中世の時代に栄えていた国で、西アフリカのサハラ砂漠南部に位置します。

このマリ帝国で王となったマンサ・ムーサですが、その立場は実は幸運によって得られたとも言われます。

当時のマリ帝国には、国王が遠くへ巡礼に行ったり、難しい旅に挑む場合には、事前に後継者を立てるという習わしがありました。

国王がそのまま戻らなかった場合、国が混乱してしまうので、スムーズに次の国王に引き継げるようにしておくのです。

先代の国王が大西洋の果てを探すという難しい旅に挑む時には、その習わしに従いマンサ・ムーサを後継者に指名しました。

その後、旅に出た先代の王が戻ってくることはなく…マンサ・ムーサは9代目の国王に即位することになります。

このような経緯で国王の地位を得たマンサ・ムーサでしたが、マリ帝国をますますの繁栄に導き、またユニークな文化遺産を遺したことで、その能力は高く評価されています。

現在でもマンサ・ムーサを記念する金貨がデザインされるなど、大きな影響を残し続けているのです。

では、マンサ・ムーサはどのような活躍をしたのでしょうか?

 

「金」による繁栄

それではマンサ・ムーサの伝説について見ていきましょう。

この歴史を語るうえで外すことのできない重要なキーワードが「」です。

マリ帝国は先代の国王の代から戦争によって支配する地域を拡大してきたのですが、ある時支配した地域から大量に金が産出されます。

その時代には、サハラ砂漠を超えてイスラム商人がやってきていたため、この金を主力商品にすることで彼らと貿易を行います。

当時、貨幣という概念はなく、取引は物々交換によって行われていました。

マリ帝国では金を装飾品以外には使っていなかったため、積極的にそれ以外の物資と交換し国を豊かにしていったのです。

こうした交易によって栄えたマリ帝国でしたが、マンサ・ムーサはただその豊かさにあぐらをかいていたわけではありません。

マンサ・ムーサは地中海から西アフリカ沿岸につながる重要な交易ルートを戦略的に支配していくことで、より条件の良い取引ができるようにしていきます。マリ帝国はますます利益を上げていきます。

マンサ・ムーサの時代には、世界で流通している金の半分以上はマリ帝国から産出されたものだというのですから、その影響力は凄まじいものがあります。

マンサ・ムーサが行った最も有名な交易に「塩金交易」というものがあります。

マリ帝国の都市トンブクトゥは豊富な金資源があるけれど塩が足りないという状況になります。そこで目を付けたのがガーナ王国です。ガーナ王国は、塩には困っていないものの金が不足しているという情報を聞きつけたのです。

そこでマンサ・ムーサは、金と塩を結ぶ交易ルートをすぐにつくります。

現代では安く仕入れられる塩ですが、サハラ砂漠に住む人たちにとってはなくてはならないものです。暑い土地なので適度に補給しないと命に関わりますし、食料の保存用途としても重宝されていました。

そのため当時のアフリカでは塩は非常に価値の高いもので、塩の重さに対して同じ重さかそれ以上の金が支払われるほどでした。アラブの商人たちは金を塩と交換してもらうために数千頭のラクダを率いて砂漠を渡っていたとも言われています。

そこに交易ルートを設置したマリ帝国はますます力をつけていきます。

また、湯水のように出てくるトンブクトゥの金に目をつける盗賊がたくさんいたため、マンサ・ムーサは様々な対策をとります。

金の採取先や保管場所を知られないように都市中に多くの警備員を手配したり、マリ帝国を通る時には高い税金を課すことで「黄金の都市」トンブクトゥを守ります。
こうして条件の良い交易と、高い税金によってマンサ・ムーサは莫大な利益を得ることが出来たのです。 

エクストリームメッカ巡礼

 

そんなマンサ・ムーサのお金持ちぶりを表すエピソードとして有名なのが、想像を絶する規模で行われたメッカ巡礼です。

メッカ巡礼というのは、現在のサウジアラビアに位置するメッカにある神殿を礼拝することを目的とした旅のことで、そこはイスラム教の開祖である預言者ムハンマドが生まれた土地でもあります。

マンサ・ムーサは、この巡礼の旅に、あまりに大規模で豪華な隊列を組んで臨みます。

その規模はなんと60,000人の家臣、12,000人の奴隷、更に10トンもの金をラクダで運ぶというものです。

あまりに多くの従者を引き連れていたため「先に宮廷を出た隊列の先頭がトンブクトゥに着いた時、国王はまだ宮廷にいた」なんて記録が残っているほどです。

この旅は1年以上かけて行われたのですが、道中の従者や家畜の食料はマンサ・ムーサが出した費用により賄われたというのですから、彼がどれだけお金持ちだったのがわかります。

その上マンサ・ムーサはその裕福さを見せつけるかのように、家臣たちに絹の服を着せ、黄金の杖を持たせ、奴隷たちにも約1.8キロの金の延べ棒を持たせていました。

このあまりに豪華なマンサ・ムーサの巡礼の旅を見た周辺の国は「マリは何て裕福な国なんだ!」と驚き、そのマリ帝国繁栄の噂は地中海を超えて南ヨーロッパにまで届きます。

この噂を受けて、グラナダやヴェネツィア、ジェノバの商人たちは金を求めてマリ帝国との積極的な交易を行うようになったのです。

この頃のヨーロッパは内戦と飢饉で苦しんでいたため、アフリカやイスラム圏の人たちの繁栄がより一層輝いて見えていたに違いありません。

これだけでもインパクトのあるマンサ・ムーサのメッカ巡礼ですが、彼のお金持ちエピソードはこれだけでは終わりません。

マンサ・ムーサは旅の途中も、貧しい者に施しをしたり、通りがかりに良い場所をみつけるとモスクというイスラム教の寺院を建てたりと大量の金を使いまくります。
もちろん地位のある人物に対しては豪華な「お土産」を山ほど渡します。

善意で行ったであろうこれらの散財でしたが、マンサ・ムーサの思惑とは裏腹に、この金の使い方により強烈なインフレーションが発生していきます。

大量の金を惜しみなくわけ与えたことにより、いままで貴重だった金は、逆にいろいろなところで手に入るようになります。そうなると交易において金は必要とされなくなってしまうのです。

こうして金の価値が暴落し、経済は不安定になってしまいました。

マンサ・ムーサの散財によって経済が不安定になった都市のうちのひとつカイロでは、このインフレーションが12年もの間続いたと言われています。

この致命的なミスによって、マリ帝国は経済的な基盤を弱めてしまいました。

そのため歴史家の中には、このエピソードを指して「国の財産を浪費し、伝統を大事にしない人物だ」と評価する人もいます。 

メッカ巡礼がもたらしたもの

ですが、マンサ・ムーサの散財や豪華絢爛なメッカ巡礼がもたらしたものは悪い結果ばかりではありません。

先ほども言いましたように、マンサ・ムーサのメッカ巡礼は地中海を超えて、ヨーロッパにまでマリ帝国の繁栄を広く知らしめることになりました。

そのため、ますます諸国との交易は活発になっていきます。

また、巡礼の旅から戻ってきたマンサ・ムーサはメッカを訪れたこともあり敬虔なイスラム教徒となっていて、イスラム教の布教に尽力するようになります。

以前から多くの商人たちで賑わっていたトンブクトゥにモスクや、マドラサという教育施設を建設していきます。

それだけではなく、イスラム学者や天文学者、占星術師などを各地から招待して、先進的な学業を受けることの出来る体制を整えたのです。

中でも「サンコーレ・モスク」と呼ばれるイスラム教の寺院は、アフリカ大陸で最初に建てられた大学とされています。最盛期にはそれらの教育施設に25,000人もの学生が集まるほどの盛況ぶりだったと言われています。

このようにマリ帝国は経済的に豊かなだけでなく学術的、文化的にも非常に先進的な国だったのです。

また、マンサ・ムーサは王宮の内側に、広く臣民の声を聴くための建物も建設します。この建物は、幾何学模様で装飾されたドーム型で、上の階の窓は銀で、下の階の窓は金で装飾するという贅沢っぷりです。

しかし、当時の建物は練り土に藁を混ぜたものを材料として使っていたので、雨水に押し流されるなどの要因で劣化し、残念ながら現在この建物を見ることは出来ません。

このようにマンサ・ムーサは建築物を建てることに熱心だったこともあり、トンブクトゥは建物を含めて世界遺産の町にもなっています。 

メッカ巡礼の時に致命的なミスをやらかしてしまったマンサ・ムーサでしたが、彼が国を治めていた時のマリ帝国は、まさにわが世の春を謳歌していたと言えるでしょう。

マンサ・ムーサが退位した後も、しばらくは繁栄が続いていたマリ帝国でしたが、約190年ほどするとモロッコに侵略され、国は滅亡してしまいます。

さらに国内で起きた度重なる後継者争いや、周辺国の勢いが強まったことで徐々に影響力も弱まっていきます。

モロッコに侵略された頃には、マリ帝国の金は採り尽くされていて、残っていたのは内乱で荒れた町と田畑だけでした。

現代、マリ帝国の歴史はハッキリと記録が残されていない部分も多いのですが、マンサ・ムーサの「黄金伝説」だけは伝わり続けています。彼を超えるほどのお金持ちははたして現れるのでしょうか?ぜひあなたのご意見ご感想をコメントに残してくださいね。

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ということで、今回は以上です(^^)/

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