「ダーウィン」といえば、「ダーウィンの進化論」で有名ですが、実は彼が大金持ちだったことはご存知でしょうか?
晩年のダーウィンの個人総資産額は30万ポンド以上、現代の日本円にすると70億円を超えているとも換算されます。
しかもそれは代表的な著書『種の起源』の印税でなく、彼の長年にわたる投資の結果がもたらしたものです。
実はダーウィンは、死ぬまで働こうとしなかった、いわゆるニートでした。
ただそれと同時に、親からもらったお金を投資によって何倍にも増やした投資の達人でもあったのです。
今回は、ダーウィンの生涯を見ながら、どのように投資の世界で成功してきたのか、資産形成術までわかりやすく解説します。
最後までご覧いただければダーウィンの意外な一面が見られるほか、現代でも通用する投資の真髄とは何かが理解できますので、ぜひ最後までご視聴ください。
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動画でもわかりやすく解説!
Contents
ボンボンのダーウィン
チャールズ・ダーウィンは、1809年にイギリスの裕福な家庭に生まれました。
父は医師で投資家、母も大金持ちの家系と、まさに上流階級といった存在です。
また、医者としての莫大な年収の他にも、貴族へお金を貸し出したり、運河建設などの巨大事業に出資したりしていました。
そういった利息も含めると、年収は1万ポンド(日本円にして約2億4000万円程度)もあったそうです。
当時は年100ポンドで生活できた時代ですので、どれだけ高年収か分かりますね。
貴族ではないものの、お金に困ることはないお金持ちです。
ダーウィンの少年時代
そんな家庭で育ったダーウィンは、自然や科学にも興味を持ち、8歳のころには石ころや貝殻を収集したり、兄と二人で怪しげな科学実験をおこなったりしていました。
幼いころから、後の自然科学者としての第一歩を踏み出していたわけです。
その後、彼は父の希望で16歳からエディンバラ大学で医術を学ぶことになります。
しかし、残念ながら医者としての適性に欠けていたため、2年で中退することになりました。
当時はまだ麻酔技術が確立しておらず、泣き叫ぶ患者をそのまま切るということが当たり前に行われていましたが、ダーウィンにはそれが耐えられなかったのです。
中退してからはパリに遊びに行くなど自由に過ごしていましたが
父からの勧めで聖職者になるべくケンブリッジ大学に進学しました。
聖職者になれば、一家の名声を傷つけることもなく、ある程度の給料も得られるだろうと父は考えたのです。
しかし、ダーウィンは大学卒業後
「やっぱり働きたくないなー…探検家フンボルトみたいに世界中を旅してみたい!」
と言い出します。
当然父は反対しましたが、親戚の説得もあり、結局旅に出ることになりました。
その上、名家のおぼっちゃまということで
特別にイギリス海軍の調査船ビーグル号へ乗せてもらう高待遇ぶりです。
この航海、はじめは3年のはずでしたが、予定が大きくずれ込み5年間の長旅になります。
ではその間、まだ働いていなかったダーウィンはどうやって費用を用意したのでしょうか。
答えは、父のロバートが全て出してくれた、です。
なんとも羨ましい話ですが、この大航海でガラパゴス諸島などを巡った経験が、ダーウィンが進化論にいきつく最大の出来事となるのです。
ここで「ダーウィンの進化論」について簡単に解説します。
ダーウィンは1859年に『種の起源』で「生き物は変化していく」ということを科学的に検証し、世界で初めて発表しました。
これを簡単に例えると
「キリンの首が長いのは…首が長ければ高い木になる実を食べることができ生存に有利である。そのため首の長い遺伝子を持つキリンが多く生き残るようになり、それが子へと遺伝することで、首が長いキリンだけになる」
というような話です。
ダーウィンは長い時間をかけてこの説を科学的に検証し、40年の歳月を経て『種の起源』を出版したのです。
プロニートのダーウィン
ビーグル号での旅から3年後、ダーウィンが30歳の時に従姉妹のエマと結婚します。
当時のダーウィンは進化論について研究していたものの、大学で教えていたわけではなく、収入を得られるような仕事はしていませんでした。
ではダーウィン夫妻はどうやって生活していたのでしょう?
実は、毎年ダーウィンの父から500ポンド
エマの実家から400ポンドで
計900ポンドもの仕送りを受け取っていたのです。
また、結婚する際にエマは実家から5000ポンドの債券を
ダーウィンは父から1万ポンドの債券をもらっています。
これらの債券は何もしなくても毎年4%の利息を生んだので、利息だけでも年600ポンドの収入があった計算になります。
仕送りと合わせると、二人の年収は計1500ポンドとなり、ダーウィン夫妻は、現代の価値でいうと3600万円相当のお金を働かずに得ていたわけです。
これもまた羨ましい話ですが、そんなダーウィンに転機が訪れたのは38歳の時です。
父、ロバートが亡くなったのです。
ロバートは亡くなるまで資産を増やし続けており、数々の農場やアメリカの産業界への投資など、幅広く投資をおこなっていました。
その遺産総額は4万5000ポンド(現代の日本円で約11億円相当)と推定されています。
父の遺産相続後、ダーウィンは金融資本家としての才能を開花させていくことになります。
ダーウィンはもともと物事の細かな推移を見るのが得意で、それでいて粘り強く慎重な性格でした。
ですから堅実な投資戦略を立てることができたのです。
ビーグル号で世界を旅しているときから、細かく帳簿をつける習慣を身につけており、当時の収入記録が詳細に残っているほどです。
彼の投資成績をみてみると、40代で年間5000ポンド程度の収入を投資によって得ていたことがわかります。
これは既に1850年代当時のイギリス国内の不労所得ランキングでも上位に入るほどの大富豪レベルです。
ダーウィンが50代のころには年収6000ポンド、60代になると8000ポンドと…着実に収益は伸びていきました。
8000ポンドは現代の日本円に換算すると約2億円です。こんな金額を投資だけで稼ぐのですから、彼の投資家としての才能は疑いようもありません。
さて、ここまで聞いてくださったあなたは、ダーウィンが投資で成功したのは「ただ親が金持ちでケタ違いにお金を持っていたから」だと考えるかもしれません。
確かに投資において元本、つまり元となるお金が多ければ多いほど選択肢が増え、成功しやすいといえます。
しかし、お金持ちだからといって必ずしも投資の世界で成功できるわけではないのです。
ダーウィンが投資家としてどのように優れていたのか?
彼の投資戦略と、実際の投資判断をみながら解説していきます。
堅実な投資戦略
ダーウィンの投資判断は決して大胆ではなく、『種の起源』の出版に長い年月をかけたように、じっくりと熟考するタイプでした。
理論的に物事を考える彼は、エマと結婚する時にも「結婚の損得」を利点と欠点と比べて考えていたほどです。
利点は「孤独ではなくなる」こと
欠点は「本を買うお金が無くなること」と「時間を無駄にしてしまうこと」と後に述べています。
そんなダーウィンの投資は、まさに王道的です。
淡々と、丁寧に投資をし続け、ギャンブルの様な買い方はせず、彼は危ない橋を決して渡ろうとしませんでした。
その具体例を見てみましょう。
1851年、イギリスでは全長約1万1000キロにわたる鉄道路線が敷設される大鉄道ブームが起こります。
もちろんこれには投資界隈も大盛り上がりでたった一晩で富豪と没落者が生まれるほど変化が激しい状態でした。
そんな中、ダーウィン夫妻は鉄道ブームにはあえて乗ろうとしませんでした。
鉄道ブームが収束し、相場の活気がなくなったときこそがチャンスだと見て、タイミングを見計らい徐々に資金を投入したのです。
このやり方は、現代の投資でいうところの下落相場での「ドルコスト平均法」に近いような手法です。
また、ダーウィンは株式という価値が変わりやすく不安定なもの以外にも、不動産という比較的安全性が高いもので万が一の損失をカバーできるようにしていました。
リスクを分散するという、現代でも投資を語るうえで欠かせないリスクヘッジをしていたのです。
このように、危険を回避する確実な投資戦略こそが
ダーウィン流の「投資の大原則」だったのです。
また、ダーウィンが投資において成功した要因はもう一つあります。
それは、高い情報収集能力です。
彼は何年もかけてニュースと株式市場を観察し、さらに専門家の意見も進んで取り入れました。
他にも、自分の資産に影響を与えそうな国際情勢の情報入手と、その分析にも優れていたといわれています。
例えば、1850年ごろにアメリカ・カリフォルニアとオーストラリアでゴールドラッシュが起きました。
金が発掘されたことにより周辺地域が急速に成長し、産業構造まで変わるなど、様々な面で大きな変化をもたらしたのがゴールドラッシュです。
ダーウィンにとっては遥か海の向こうの出来事であるにもかかわらず…これを他人事だと思わずにしっかり情報収集し自分が損をしないようにと立ち回りました。
そんな彼を「臆病だ」という人もいましたが、投資の基本を押さえた現在でも通用する王道の投資術をダーウィンは続けました。
ダーウィンは生涯、収入のために働くことはありませんでしたが、投資に関しては本気で向き合い、努力を怠らなかったからこそ成功したのです。
彼の生涯投資成績は、晩年には最低でも総資産約30万ポンド(現代の日本円で約70億円)にまでのぼったとされています。
30代の時に、亡くなった父ロバートから相続した遺産は4万5000ポンドでしたが、人生を通じてその資産を約7倍にまで膨らませたことになります。
やはりそのポイントは、観察とそれに基づくデータ分析。
仮説を立て地道に努力するやり方はダーウィンが進化論にたどり着く科学研究と全く同じ手法だったというわけです。
そんな大富豪ダーウィンですが意外と贅沢な暮らしをしなかったため、資産は増えるばかりでした。
贅沢を望んでいたわけではないのに、なぜそこまで投資に情熱を持っていたのか、分かりますか?
答えは、7人の子供たちの将来のためです。
ダーウィン夫妻には10人の子供がいました。しかし2人は幼くして死亡、長女アニーも看病むなしく10歳で亡くなりました。
ダーウィンは妻や子供をとても大切にしており、子煩悩だったといわれています。
彼自身も自分の人生が、親の資産のおかげでうまくいったことを理解しており、自分の子供に対しても手助けをしてあげたかったのです。
彼の総資産約30万ポンドは、その子供たちへの「愛の形」だったといえるでしょう。
死ぬまで働こうとはしなかったダーウィンでしたが、その分投資とは真剣に向き合い、大成功しました。
自分が親の資産に助けられていたことを自覚し、自分も子供たちのために努力する姿は尊敬に値すると僕は思います。
今回は詳しく解説しませんでしたが、ダーウィンは自然科学者として『種の起源』を出版するなど、現代生物学に大きく貢献した偉人です。
今後、ダーウィンの進化論を学ぶ機会があれば、今回の動画の内容と照らし合わせて学んでみると、また違った面白さがあるのではないでしょうか。
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ということで、今回は以上です(^^)/